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小川未明『遠くで鳴る雷』をどう読むか

 ここには、台中日本語教師勉強会オンライン06で扱った『遠くで鳴る雷』(小川未明)について、犬山自身の読みを書いて起きます。

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■  『遠くで鳴る雷』犬山の読み 

*最初に……。犬山は学習者を「評価する」必要のない立場で日本語を教えています。なので、「犬山の読み方」に同意しない学習者に低い点をつけたり、叱ったりするような事は全くありません。 

学習者それぞれの読み方を尊重しますし、他者の意見を聞くことは一人では気づかなかった発見につながり、作品をより深く読むことができるようになると考えます。今回ここに書く「犬山の読み方」それ自体が学習者とのやり取りを通して浮かんだ一つの考え方であり、「こう読むと、おもしろいかもよ」という提案でしかありません。 

もちろん、「教室」という場では、教師の力が圧倒的に強くなるため、学習者が教師の読み方に引きずられる、影響されるという批判もあると思います。それはそうだと思います。が、自分は学習者を強く「信頼」しており、教師の言う「ざれごと」など、軽く超えて自分の読み方をしてくれる、自身の読み方で作品を楽しんでくれると信じております。 

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『遠くで鳴る雷』 青空文庫 5〜10分で読めます。 

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『遠くで鳴る雷』読解用 ワークシート

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「きゅうり」とは何か。 

二郎は自宅の畑で育てたきゅうりを川に投げることになるのですが、その直前の二郎の気持ちの描写が以下です。 

(引用) 

二郎は、ぼんやりとして、夢のように、きゅうりが芽を出したばかりの姿や、やっと竹にからみついて、黄色な花を咲かせた時分を思い出すと、ほんとうにこの実をつるから切り離すのがかわいそうでならなかったのです。 

(引用終わり) 

きゅうりが芽を出した(この世に生まれた)時からの成長の全てを二郎は知っている。その上で、きゅうりを送り出さなければならないという立場は、ある意味「子を見守る親」の視線と重なります。 

「母親と二郎」の関係は「二郎ときゅうり」の関係として、時間的には先取りされて演じられていると考えることができます。 

つまり、「きゅうり」とは、「将来の二郎」の姿であると考えます。 

いくら二郎(親)がきゅうり(子)を愛していても、二郎(親)はきゅうり(子)を手放さなければならない。きゅうりは二郎から離れることで、親子という家族関係から出たところで、社会的に新しい価値が生まれる。 

ですから、きゅうりが川を流れていく時に鳴る雷は、若者の旅立ちを祝福するファンファーレだと考えられないか。 

ちっぽけなきゅうりと、悠々と流れる大河、そして空に立ち上る「赤銅色」の入道雲のイメージは、小さな個人と大きな社会、世界の対比を思わせます。 

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こうした話をしたとき、学習者の一人が「ファンファーレというより、爆竹のイメージではないでしょうか」と意見を話してくれました。「台湾では結婚する花嫁が家を出るとき、たくさんの爆竹を鳴らします。これは魔除けというか、邪気払いの風習です。私は先生の話を聞いて、楽器よりも爆竹を思いました」と。すばらしい発想だと思います。 

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また、社会の中の「迷信」の役割など、いろいろな事を考えるきっかけにもなります。が、とりあえず今回はここまで。以下に犬山が授業用に作った学習材(語彙問題その他)があります。興味がある方は見てみてください。(犬山俊之)

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