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「日本語教育の参照枠 報告」内のコラムについて これはおかしいと思う。賛同できない

日本語教育の参照枠 報告 文化審議会国語分科会 P.6のスクリーンショット 以下の文章が見えます  * 「1 日本語学習者を社会的存在として捉える」とは、どういうことか? 「日本語教育の参照枠」では、学習者を社会の一員として人々と関係を持ちながら、日本語を使っ て様々な課題を解決しようとする存在として捉えます。なぜこのようなことを、言語教育観の柱とし て示しているのでしょうか。 例えば日本語を教える際にも、ある文法事項を実際の言語使用の場面などと関係なく教える、全員 に同じ漢字・語彙を教えるなど、多くの場合、教える側の事情によって、学習者を異なりのない均一 な存在として捉えてしまうことはないでしょうか。 そうではなく、学習者が置かれている様々な背景や社会的な状況に応じて、生活の中で必要な表現 や話し方、漢字・語彙を学ぶ、仕事で求められる技能を優先的に伸ばすといったことが大切です。特 に成人の場合は既に持っている知識や経験を生かして学ぶことができるのです。このように一人一人 異なる状況に応じた学びを支えるための枠組みとして「日本語教育の参照枠」は編まれました。 社会と教室を隔てることなく、学習者一人一人の豊かな多様性を生かし、日本語を通した学びの場 を人と人が出会う社会そのものとすることによって、共生社会の実現を目指す。それが、「日本語学習 者を社会的存在として捉える」という言葉に込められた意味なのです。

[覚え書き] 「日本語教育の参照枠 報告」内のコラムについて #日本語教育

一見「よさげ」な事が書いてあるが、これは賛同できない。何かズレていると思ったのでメモ。以下の6ページのコラム

(学習者を均一な存在と見るのではなく)以下引用「学習者が置かれている様々な背景や社会的な状況に応じて,生活の中で必要な表現や話し方,漢字・語彙を学ぶ,仕事で求められる技能を優先的に伸ばすといったことが大切です」(引用終わり)

うーん、これはどうか。

簡単に「自分の立場」からの疑問点を書いてみる。

 *

1)「生活の中で必要な表現」とあるが、自分が毎日接している学習者は台湾在住なので「生活の中で」日本語は必要ない。こちらの学習者が日本語を学ぶ目的・理由の第一位は圧倒的に「なんとなく」なので、明確な目的を持って学び始める人はほとんどいないし、そもそも日本語は必要とされていない。

なので、こちらの仕事は、そうした学習者に「言葉を学ぶことのおもしろさ」に気づいてもらえるようにすることになる。

いや、もちろん日本国内の学習者を想定しているのだというのはわかるが、海外の学習者(等)が全く視界に入っていないかのようなこの書きぶりには、がっかりさせられる。

2) また学習者それぞれの「生活の中で必要な表現や話し方、漢字・語彙」や「仕事で求められる技能」など、日本語教師の側は正確に把握できるのか。例えば、だけど、学習者の中にアインシュタインや、蔡英文前台湾総統がいたとして、彼ら彼女らに必要な日本語とは何だろうか。また、教師側(自分)に予備知識の全くない地域の学習者の「生活」を理解できるのか。

日本語教師の能力を買いかぶりすぎていないだろうか。学習者一人ひとりの多様性をあまく見てはいないだろうか。

国の方針として、それを日本語教師に求めるのは現場の教師を苦しめることになるだけだと思う。

もちろん、学習者を「均一な存在と見る」ことを「よし」とはいないが、「教師が学習者の多様性を完全に把握できる」という前提からスタートするべきではない。

3) 次に「求められる技能を優先的に伸ばす」ことは可能だろうか。「教師がAという項目を教えると、学習者がAという学びを得る」というような教育モデルは批判されてきたのではないか。特に「伸ばす」というような表現は、教師側が学習者の学びをコントロールできるかのような錯覚を与える。

教師はもちろん教室では最良と自身が信じる方法で学習者に向き合う。しかし、それが学習者の中でどんな「学び」となって、いつ結実するかは知りようがない。

  *

以上の三点、自分はこのコラムを読んで、非常に危なっかしいと感じました。あと、引用部分は、日本語の文章としてもぎこちなさを感じます。並列関係にあるのが、どの語とどの語なのか、正直わかりません。▼