[本]『ケースで考える!誰も教えてくれない日本語教育の現場』(ココ出版)
来週の雑談配信のために再読中。
第4章 「〇〇では…」「〇〇人は…」―文化の教え方を考える
「日本ではこうする」とか「日本人はこう考える」といった安易なステレオタイプを語学教師が語ることの弊害、危険性について。
「非日本人」の排除や同化の強制にもつながるし、無自覚な植民地主義的な思想が隠れていることもある。
ただ、現場の教師からは「日本のことを教えてるだけで、それの何が問題?」という反応が返ってきやすい。
1月3日の雑談配信は古屋先生のコラムを出発点に。
https://casedekangaeru.wixsite.com/home/post/column01
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教室内ではないし、本書の内容とはちょっと違うかもしれないけれど、「日本では」という言葉の面倒くささについての個人的な体験を書いておきます。
「日本では箸の持ち方でその人が判断される」。
自分も無意識にそうした考え方を内在化していたと思います。
なので、自分にとってアメリカ留学中に出会ったアジアからの留学生といっしょに食事した時は、ホントにびっくりしました。「箸の持ち方、むちゃくちゃやん」「品がないなあ」と正直最初は思いました。今考えると視野の狭さというだけの話なのです。「それぞれが違う、そこに優劣はない、以上」ということでしかないのに、海外に出てまで「日本の物差し」で人を見ようとしていました。
その後、台湾に住むようになり、日本と違う台湾での食事マナーを見、その中にもいろいろあることに気づき、やっと日本的な「箸の持ち方」の呪縛からは逃れることができた……かも。
しかし、次に待っていたのは一時帰国の苦痛でした。自分の台湾人家族、知人を日本に連れて帰るたびに、「日本では」「日本人は」という言葉が、彼ら彼女らに浴びせられます。日本の両親や親戚知人のみなさんは「心からの親切心」でそう言ってくるので、その言葉のはらむ暴力性に微塵も気づきません。箸の持ち方はもちろんの事、育児、生活習慣のあれやこれやに口を出してきます。もう、ね、日本に帰りたくなくなります(もちろん逆の「台湾では」もあるのですが)。
こうした無言の同調圧力として発せられることもある「○○では」という言葉を語学の教室内でどう扱うのか、どう考えるべきなのか、2026年1月3日(土)の日本語教師雑談配信の中で話し合ってみたいと思っています。
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[本][YouTubeライブ] #日本語教育 2026年1月3日(土曜) 日本時間午後8時(台湾時間午後7時)
日本語教師雑談配信 第5回
https://www.youtube.com/@ousuishi/streams
『ケースで考える!誰も教えてくれない日本語教育の現場』(ココ出版) 日本語教育の現場で生じる様々なモヤモヤを言語化し、問題提起している本書。今回は
第四章「『◯◯では…』『◯◯人は…』/文化の教え方を考える」について考えます。 共著者のお一人である古屋先生のコラムを出発点に。
https://casedekangaeru.wixsite.com/home/post/column01
スピーカーは以下
古屋憲章
青山豊
山田朗一
犬山俊之
